風林火山
風林火山(ふうりんかざん)は、甲斐国 甲斐(山梨県)の戦国大名・武田信玄の旗指物(軍旗)に記された「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」の通称。実際にも使用されたが、江戸時代以降の軍記物などで武田軍をイメージするものとして盛んに取り上げられ、現在でも多くの人が「武田軍」といえば真っ先に「風林火山」を想起させる。
「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」の句は『孫子 (書物) 孫子』・軍争篇で軍隊の進退について書いた部分にある「其疾如風、其徐如林、侵掠如火、知難如陰、不動如山、動如雷霆。/其の疾きこと風の如く、其の徐(しず)かなること林の如く、侵掠すること火の如く、知りがたきこと陰の如く、動かざること山の如く、動くこと雷霆(らいてい)の如し」からの引用。各版本によっては「知難如陰」と「不動如山」が逆に記されている場合もあり、信玄はそうした版の前四句を採用したものと思われる。
直江兼続
直江 兼続(なおえ かねつぐ、永禄3年(1560年) - 元和5年12月19日 (旧暦) 12月19日(1620年1月23日))は、戦国時代 (日本) 戦国時代・安土桃山時代・江戸時代の武将。上杉氏の家老。
父は長尾政景に仕えた樋口兼豊(木曽義仲の重臣樋口兼光の末裔という)、母は信州泉氏の娘と伝える。仙桃院(上杉謙信 謙信の実姉で、上杉景勝の母)の推薦で幼い頃から景勝に近侍していたといわれるが、当時の様子が窺える良質な史料はなく、父兼豊の身分についても見解が分かれている。「藩翰譜」によれば兼豊は薪炭吏だったという。
兼続は天正8年(1580年)8月ごろから景勝への取次ぎ役など側近としての活動が確認できる。同8月15日には景勝印判状の奏者をつとめている。天正9年(1581年)に景勝の側近である直江信綱と山崎秀仙が毛利秀広に殺害されるという事件が起きると、景勝の命で直江景綱の娘お船の方の婿として結婚し、跡とりのない直江家を継ぐ。以後、兼続と狩野秀治の2人の執政体制に入る。